育児とは口頭伝承である
出産、育児とは口頭伝承の部分が非常に多いと思う。
そして「こんなの知っていて当たり前でしょう」要素が大きいのにも驚く。
オムツを変えてくださいね⇒オムツってどうやって変えるのよ?!
おくるみで包んであげて ⇒おくるみの包み方がわからないのですが!!
抱っこしてげっぷを出してあげてください⇒まず抱っこのやり方を教えてください!
身の回りに小さな子供がいれば「知っていて当たり前」のことも、まったく接点がなかった人にとっては未知でしかない。
わたしは小さな赤ちゃんが苦手だった。
むにゃむにゃふにゃふにゃしているし、落っことして怪我でもさせたら大ごとだ。
いままで友人の出産祝いに行ったことは何度かあったが、赤ちゃんを抱っこしたことは一度もなかった。
なので他の人にとっては「当たり前」であることも、よくわからず不安でしかなかった。
そんなときは仕事に置き換えて考えてしまう。
普通初めてのことをするときにはマニュアルがあるよな
リスクがあるものについては先に説明を受けておきたい
今後どのように進んでいくのか、明確なマイルストーンのようなものが欲しい
なんにせよ育児はざっくりしすぎなのである。
そして皆自分なりの成功体験があり、してくるアドバイスは千差万別。
ネットを検索すればたくさんの情報が溢れかえっているのだが、それらの情報は細切れのものが多く、自分でたくさんの情報を集めつなぎ合わせなければいけないような印象があった。
だからここで乳腺炎、母乳についての情報をまとめておこうと思う。
あくまでも我流だけれども。苦しんだ期間、自分自身が欲しかった情報を今後の誰かのために。
閲覧注意【母乳ウォーズ 乳腺炎との戦い】 体験談編 その⑤ その後のはなし
切開をしたからといってすぐによくなるわけではなかった。
回復徐々に徐々に。
しかし同時に新たな問題も勃発し、「母乳で赤ちゃんといちゃいちゃタイム」はなかなか訪れなかった。
常に汗だくでミミと格闘する授乳時間。
そして常に「色は変色していないか」「しこりはないか」「痛みがある場所はないか」とおっぱいのことばかり考えていた。
少し頭痛がすれば「乳腺炎なんじゃないか」
少し高カロリーなものを食べれば「乳腺炎になるんじゃないか」
おっぱいに振り回される日々がつづく。
切開をした3日後には授乳許可が出た。
しかし乳輪のすぐそばに傷口があり、なおかつその周辺が大きなしこりになってしまっているため、授乳は難しかった。
かといって授乳をしなければまた乳腺炎になってしまう。
わたしは左胸のみで授乳をしながら右胸は搾乳器で随時搾乳を行うことにした。
そのころには左胸の乳腺が発達し、左胸の授乳だけでお腹いっぱいにすることができるようになっていた。
自動搾乳器を右手で押さえつつ、左手で赤くなっている箇所やしこりがある部分を押し出すようにもんでいく。
ぽちゃ ぽちゃ ぽちゃ…ばちゃばちゃ
そのマッサージがうまくいくと勢いよく母乳がでるのであろう。哺乳瓶に落ちる母乳の音が変わる。
ほんのちょっと詰まっている部分を出すだけで身体の倦怠感や張りがとれるのだ。
たった数ミリの母乳に自分が支配されているような気がした。
普段血液がなにもせずともスムーズに全身を流れていることが奇跡に感じる。
搾乳を続けていると、切開した部分からも母乳がでるようになった。
最初その光景を見たときには戦慄したが、少しすると慣れた。むしろ大きな穴があいている分、そこから母乳が出ることで右胸全体がつまりにくくなるようだった。
しばらくは切開のおかげで乳腺炎にはならずに済んだのだが、切開の傷口がふさがると再び右胸がズーンと重く感じるようになってきた。
相変わらず大きなしこりが残ってしまったためにミミは右胸を飲もうとしない。
小沼さんには週に一回行き、マッサージを受けていたものの行って数日もすると右胸の調子が悪くなってくる。
どうにか飲ませようと小沼さんで受けたアドバイスをいろいろ実践していた。
・哺乳瓶の乳首(ピジョンの母乳実感の乳首が望ましい)をつけて授乳
⇒確かに吸ってくれる。しかしミミが浅吸いの癖があるらしく、喉の奥に入るとかんでしまうため哺乳瓶乳首の中が真空状態になり、わたしの乳首がもげそうに痛くなるため断念。果汁用の乳首で試すもののこれまた失敗
・しこりを避ける飲み方
⇒縦のみやフットボール抱きをして飲ませるものの、シコリが乳輪に近いためどうしても口にあたってしまう。口に違和感を覚えるため吸おうとしない
一生懸命飲ませようとするのだがうまくいかない日々がつづく。そんな中、ミミは右胸を飲みたくがないゆえに「たぬき寝入り」を習得した。
「ふにゃぁ ふにゃあ(おなかすいたよー)」
「はーい、おっぱい飲みますよ(右胸ぺろん)」
飲めないとわかると
「すやぁ…(薄目をあけてこっちの様子を伺っている)」
「(たぬきか…)あれ、おっぱいいらないのかな。じゃあ寝ようね」
下におくと「うぎゃー!!」そして根負けして左胸を吸わせるとゴクゴク…
これはこれで可愛かったが、いつになったら右胸が飲めるようになるのか不安な日々が続いていた。里帰りから東京に戻る日は着々と近づいている。
週に一度小沼さんに通わかなればいつ乳腺炎になってもおかしくない右胸爆弾を抱え、わたしは焦っていた。
そして迎えた8月。お盆シーズン。
小沼さんがお休みに入った時、右胸に違和感を覚えた。ズーンと重苦しく頭も痛い。身体の関節も少しずつギシギシときしんでいる。
やばい…
確実に黒い影が忍び寄ってきているのを感じる。
いつにもまして右胸授乳をがんばったが、ミミは変わらずきっぱり拒絶。
仕方なく夏休みで実家に来ていたけーちゃんに吸ってもらった。
しかし母乳はほぼ出ず、吸いすぎてけーちゃんが口のなかを負傷するという形で終わってしまった。赤ちゃんの口の中は母乳を吸うような作りになっているのだ。大人では到底かないっこない。
どうしようもなく、胸をアイスノンでギンギンに冷やしその日は眠った。
それは朝方の授乳だった。午前4時くらいだっただろうか。
ミミに左胸をあげ、げっぷをさせている時ふと右半身に違和感を感じた。
(…冷たい…)
右側の母乳が漏れたのだろう。そう思って目をやると右半身にべったりとついた血が目に飛び込んできた。
「!!!!????」
声が出ず隣に寝ていたけーちゃんを叩き起こす。
「ちょ…たいへん!!!」
何事かと飛び起きたけーちゃんと一緒に電気をつけ恐る恐るパジャマを確認すると、そこにはそこには大量の血膿がついていた。
「ひっ…」
二人で息を飲む。
切開し、傷が塞がっていた場所が爆発し、そこから母乳と膿がでていたのだ。
母乳パットには黄緑色のぶよぶよしたような膿がつっくいていた。
「こんなのが詰まってたんだ…」
どう考えても乳首からは出ようがない大きな膿がそこにはあった。
しばらく呆然とした後、意を決して膿をすべて出してしまうことにした。
小沼さんも乳腺外科もお盆で休みだ。いまは考えられるわたしにできる最善を尽くすしかない。
そして切開した口が空いているいまならシコリを出すことができるかもしれない。
大きく深呼吸をして傷口に向かっておっぱいを絞る。
すると青虫のような動きで膿が混じった母乳がぶにゅにゅにゅっと出てきたではないか。
ぞわっと悪寒が走り、目の前がチカチカする。
しかしそれと同時に悪いものを外に出しているという達成感があった。
ぶにゅにゅにゅ
ぶにゅにゅにゅ
膿はどんどんとでてくる。最初は濃度が濃かったもののしばらく絞り続けると最終的にはそれはサラサラとした母乳に変わった。
「…勝った…」
気が付くと窓からは朝日が差し込んでいた。
全身にガチガチに力を入れていたのだろう。肩をはじめとして全身がひどく痛い。
ティッシュにべったりとついた大量の膿を改めて見つめる。
「そりゃあこんなものがおっぱいの中に入っていたら体調も悪くなるわなぁ」
右胸は嘘のように軽くなり、シコリも小さくなったように感じた。
----------------------------------------------------------------------------------------
この後徐々に右胸は回復し、これ以降重苦しいつまりは感じられなった。しかし右胸からミミが飲めるようになったのはここからさらに2週間後くらい。
(小沼さんで母乳方法を一緒に試行錯誤しながら考えてくれたおかげで無事飲めるようになった)
出産直後から母乳に振り回されっぱなしだった2ヶ月間。
母乳がこんなにしんどいものだとは思わなかった…
出産はごく一部の情報しか出回っていないということ、情報は取りに行かなければ得られないこと、しかしそもそもなんの情報が必要なのかということがわかっていないことを自分の経験を通じて改めて実感した。
次ではおっぱいとの戦いのなかで自分が得た知識や経験をまとめておこうと思う。
おっぱい…舐めたら痛い目にあいますわぁ。
【母乳ウォーズ 乳腺炎との戦い】 体験談編 その④ おっぱいを切り倒す
乳腺外科にて診察を待つあいだ、先にエコーをとることになった。
ガウンのような検査着に着替える。
ビクビクしながら検査ベッドに上がると、化粧の濃い、怖そうなおばさん看護師がわたしのそばにやってきた。
「はいー先にエコーとっちゃいますからねー」
サクサクと検査着の前を開け、エコーをあてていく。
「あら。真っ赤になっちゃって。痛いでしょう」
エコーを乳房に押し当てられる度、ぞわっとした嫌な感じが背筋を走る。
「はい、じゃあまた後で診察しますので。一度ロビーに戻ってください」
しばらくして診察室に呼ばれる。
先生は小柄な、でも身体の引き締まったダンディーなおじさん先生だった。
「早速診てみましょう」
エコーをチェックした後に診察台にのぼり、胸を診る。
「あぁ…これは残念だけど切らなきゃだめだ。右の乳腺が詰まっちゃってるからね」
「…そうですか。あの…痛いんですよね…」
先生はぐるっと大きな目を回していたずらっこのようにいう。
「痛いね!でも麻酔の注射が痛いだけ。でも出産よりは痛くないよ」
「…出産、帝王切開だったんですけど…」
「あ〜…じゃあこっちのほうが痛いな」
帝王切開でものすごくしんどかったんですけど!!
それより痛いって!無理無理無理無理
帝王切開はその先にかわいい赤ちゃんに会える、っていうものすごいモチベーションがあったからなんとか耐えられたけれども、胸を切開したところで出てくるのは膿じゃん。
いやだいやだいやだ
一瞬にして恐怖で逃げ出したい気持ちが溢れ出す。
「切開するための場所をチェックするためにエコーを再度とります。また呼ぶのでしばらくお待ちください」
再びロビーで待機をする。
先ほど読んだネットの記事がぐるぐると頭の中を巡り、恐怖で泣きそうだった。
その日は健康診断の結果報告らしく、ロビーにはたくさんのおじいさんおばあさんがたむろしている。
「○○って病院がいいらしいわよ。最近足が痛くってね」
「この間肺炎になりかけちゃってね」
目の前のベンチでは老女二人が「不健康自慢」を繰り広げている。
しかし絶対この病院の中において、今一番重症なのは自分だ。
胸の痛みに涙ぐんでいると、ふと検査着がぐっしょりと濡れていることに気づいた。
知らぬ間に母乳が溢れ出てしまっていたのだ。
なんだかもう全てが嫌になり、ぐったりと壁にもたれかかったとき名前を呼ばれた。
「小林さーん、再度エコーとりますので」
先ほどの怖い看護師さんに連れられベッドに横たわる。
エコーをチェックしているとそこに先生がやってきた。
「あぁ…詰まっているのはここか」
そう言いう声に混じり、金属の台が運ばれてくる音、ガサガサと袋を開ける音が聞こえる。
「ちょ…ひょっとしてここできるんですか?!」
「そうだよ」
だってここはエコーをとる台で…
手術ってもっと抗菌されたような専門の部屋で、手術着来て「メス!」とかやるんじゃないの?!
心の準備が出来ておらずパニクる。
するとさっきの怖そうな看護師のおばさんにガシっと手を掴まれた。
「大丈夫。怖かったらずっと手を握っていてあげるから」
涙混じりに見上げると、怖そうに見せていたフチの濃いアイラインメイクが妙に頼もしげに見えた。
「じゃあいくよ」
ずぶっ
右胸に注射針が突き刺さる。
ビクッと身体が反り返るのを感じ、看護師さんの手を強く握り締めた。
「じゃあ切開します」
ずぶっ
再度鈍い痛みを胸に感じる
場所をずらし、もうひと刺しした時(見ていないのでイメージでしかないが)激痛が走った。
「いたたたたたいたーい!!」
「麻酔足して!」
痛みが走った場所に再度注射針が刺さる。
なんだよ!麻酔の場所ずれていたの?足りなかったの?
目からはぼろぼろと涙がこぼれる。痛さというよりも精神的苦痛のほうが大きかった。腕を切られるのであれば、まだ耐えられる。
胸を切るということは精神的にダメージを受ける、ということをこの時初めて知った。
看護師さんの手にしがみつきながら、必死で目をつぶり、身体を固くして耐えた。
「はい、おつかれさま。終わったよ」
恐る恐る目をあけてみると、右胸には大きなガーゼ、そしてその上から黄色い紙のようなものが当てられていた。
手のひらと背中は汗でぐっしょり。顔も涙でぐっしょり。
「また明日見せにきてくださいね」
「今日切ったということは、もう乳腺炎にならないですか?」
「いえ、それはわかりません。膿は出しましたがまだ残っている可能性もあるし、飲み残しがあればそこから乳腺炎になる。ただ今詰まっている分はないので右からも母乳はでるようになると思います。明日チェックをし、問題なければ授乳もして構いませんので」
「わかりました…ちなみに麻酔はいつきれますか…?」
「麻酔はすぐに切れます。痛み止めを出すので飲んでいってください。」
麻酔が切れた後の激痛を想像し、身震いする。
「ではまた明日に。今日はシャワーはやめてください。下半身のみならシャワーを浴びてもらって構いませんので」
わたしはフラフラと診察室を後にした。
胸を切ったのにこんなにすぐに自分の足で動くなんて。
すでに右胸はズキンズキンと痛み始めていた。
⇒つづく
【母乳ウォーズ 乳腺炎との戦い】 体験談編 その③ おっぱいの反乱
翌日同じ病院に行ってもどうにもならない可能性が高いような気がした。
母乳がでなくなった右胸はずっしりと重く、じりじりと嫌な熱を発し続けている。体中の関節が痛み、頭は動かすことができない程の激痛だった。
こんな状態のまま数日を過ごすと思うと恐怖で目の前が真っ暗になった。
どうにかしなくては。
藁にも縋るつもりでネットを見ていると地元でおっぱいマッサージをやっている助産院の名前があがってきた。
「小沼母乳育児相談所」
小沼さんにいったらおっぱいの調子がよくなりました
周りの人に聞くと皆小沼さんに行っていました
どうやら地元では「ゴッドハンド」として皆が頼りにしているらしい。
(ここに行けば助けてもらえるかもしれない…)
一縷の望みにかけ、翌日の朝まずはこの助産院にいくことにした。
小沼さんは住宅地の中にひっそりとあった。
看板は出ているが、よくよく注意してみないと見落としてしまう。
その日も朝から気分は最悪だった。解熱剤を飲んでいるので熱はかろうじて下がっているものの胸は固く熱く熱を持ち、頭は割れるように痛かった。
身体全体が毒に侵された感じといえばいいのであろうか。とにかく息をしていることすらしんどい。
小沼さんは一言でいえば「頼りがいのある人」だった。一目見た時から、この人に任せておけば大丈夫、というような絶対的な安心感を覚えた。笑うと目が猫のようにほそくなる。
早速上半身の服を脱ぎ、ベッドに横になる。
「ありゃあ、これはひどいね。大変だ。辛かったでしょう」
小沼さんはわたしの胸を確認すると声をあげた。
そして胸をマッサージしていく。産婦人科のマッサージと同じく涙が出るくらい痛かったが、「むりやり揉みしだく」感じはなく徐々に胸が楽になっていくような気がした。ただとにかく痛い。涙が出てくる。
そうこうしているうちに次々と他のお客さんとスタッフの人たちがやってきた。
「うわぁ赤くなっちゃって…」
「大変だったね」
口々にスタッフの人が声をかけてくれる。
そこで初めて、これは大変な状態で辛くて、でもこれから良くなっていくのだ、と思うことができて、マッサージの痛さ以外で涙が出てきそうになった。
しばらくマッサージを続けたが、やはり右胸は母乳が出なかった。
「んーこれは詰まっちゃっているね。やはり切らなきゃだめかもね」
一番聞きたくなかった言葉が発せられる。
「切開…ですか…」
「そうだね。このままだといくらマッサージしてもでないと思う。一回切ってしまえばいくらでもやりようがあるから。今日の午後いってきな。○○って病院なら待たずに診てもらえるから」
そう言って紙に病院の名前を紙に書き手渡してくれた。わたしはそれを絶望的な気持ちで受け取る。
「切ったらまた来て。切開後はシコリになりやすいから。膿を出しちゃうマッサージを早めにしたほうがいい」
「はぁ…」
「今日金曜日でしょう。土日またがないほうがいいから、今日の午後にいっておいで」
その日の午後、今度は家から一時間程度の乳腺外科を持つ病院に向かった。
道すがら「乳腺炎 切開」で検索をかける。
なんでもぐぐるのはわたしのよくない癖だ。
『信じられないくらいの激痛だった』
『切開をして、胸にカルーテルをいれた』
『痛すぎて絶叫した。出産よりも痛かった』
検索結果には恐ろしい言葉が並ぶ。
そもそもわたしは血が嫌いなのだ。注射ですら悶絶する。
出産時の帝王切開で限界だったのに、これ以上身体にメスを入れるなんて…
病院につくころには首筋と手のひらにべったりと汗をかいていた
⇒つづく
【母乳ウォーズ 乳腺炎との戦い】 体験談編 その② おっぱいの反乱
次の日、父親に仕事を休んでもらい、出産をした産婦人科へと向かった。
熱は朝まで下がることがなく、意識は朦朧。
しかしそれよりも割れるように頭が痛く、座っていることも横になっていることも辛くて仕方なかった。
病院に着くと、出産で入院をしていた部屋へと通される。
そこへタオルを数枚持った看護師さんがやってきた。
「あらぁ。退院したばっかりなのに…辛かったね。入院中は大丈夫だったのよね?」
さくさくと服を脱がし、おっぱいをぐりぐりと揉む。
そのマッサージがどうにも痛い。
力一杯揉みしだかれる感じ。
しかしそれにもまして頭のほうが痛かったので、これで苦痛から開放される、と思うと力任せにも思えるマッサージにもどうにか耐えることができた。
投げかけられる質問に、わたしは苦痛で顔を歪めながらどうにかこうにか答えていった。
「入院中は大丈夫だったのですが…昨日の夜に急におかしくなって」
「昨日食べたものを全部教えてみて」
「お昼にいくら丼を食べました。その後ゼリーをひとつ。夜は鶏肉を塩コショウでソテーしたものに野菜スープです」
「んー…熱は何時頃から?」
「たしか22時くらいだと思うのですが」
「そうか。そうしたら…あまり聞かないけど原因はいくらかな」
「いくら…ですか」
昨日食べた、つやつやと輝く宝石のようないくらが脳裏に浮かぶ。美味しかった。あれは美味しかった。しかしあいつのせいで今こんなに苦しいのだとしたら…。大好物だったいくらが嫌いになりそうだ。
「血がどろどろになるものは全部だめよ。例えばひき肉ね。麻婆豆腐や餃子を食べてつまらせちゃう人もいるし。あと豚肉もだめ。甘いものももちろんだめ」
「え…じゃあ食べていいものは…」
「野菜ね。特に根菜。肉なら鶏の胸肉ね。お魚は白身。主食はご飯。パンは詰まることがあるから避けたほうが無難かもね」
ごりごりと揉まれることで、乳首からは母乳が糸のように吹き出している。
ときどき自分の顔に飛んでくるそれを手で拭いながら、徹底した食制限をすることに決めた。
病院では葛根湯、抗生剤、解熱剤を処方された。
葛根湯が乳腺炎に効くというのは驚きだ。やるな葛根湯。
帰宅し、母親に食事制限の件を伝える。
「でもそれじゃあ母乳出ないんじゃないの?パワーでないでしょ」
むかしはおっぱいの出をよくするためにとにかく餅を食べたという。しかしググると餅は乳腺炎を予防するために最も避けるべき食材のひとつだった。
「いや。本当もうこんなしんどい思いをするくらいなら…水だけで生きていきたいくらいだから」
その日の夕食は野菜の煮物に白身魚のムニエル。きゅうりの酢の物。
がっつりコッテリが大好きなのだが、到底そんなものは身体が欲することはなく目の前の献立に満足しながら箸をすすめた。
「お母さん。これマヨネーズついているけど大丈夫かな」
ムニエルに少しだけ添えられたマヨネーズ。なんとなくだがカロリーが高く、血液が淀むような気がする。
「それくらい大丈夫でしょう。そんなん言ってたらなんにも食べるものなくなっちゃうよ」
「…そうだよね。大丈夫だよね」
その夜シャワーを浴びるために裸になると、右の乳房の下半分が赤く熱を持っていることに気がついた。
(今日たくさん揉んだからかな)
さして気にもとめず、シャワーを終えその日も早々に布団に潜り込んだ。
数時間後、足元から這い上がってくるような寒気で目を覚ました。
その日も熱帯夜だというのに、肩までしっかりと布団をかけているというのに、寒気で身体がガタガタと震える。
(まただー…)
絶望感がじわじわと身体の中に広がっていく。
抗生剤も解熱材も飲んでいるのに。
またもや39度の高熱が出てしまった。朦朧とした意識の中でどうにかミミへの授乳やオムツ換えをこなす。
朝日がのぼり、皆が起きてくると安堵感から泣いてしまった。
しばらく様子を見れば落ち着くかもしれない。
その日一日家で安静にしていたが、一向に熱は下がらず頭痛も治まらない。
あのマヨネーズがトリガーになったんじゃないか
白身魚に脂がのりすぎていたのではないか
口にするもの全てが怖くなり、白米ばかりを食べていた。
次の日、ふらふらの状態で病院にいくと先日と同じ看護師さんが看てくれた。
「食事にも気をつけていたんでしょう。お薬も飲んでいるのにおかしいわね…」
首をひねりながら服を脱がし、わたしの右胸をみるとハッとしたように息をのんだ。
「え…なにこれ。どうしたの?」
わたしの右乳房は赤黒く変色してしまっていた。そしてガチガチに張っているにも関わらず、いくらマッサージをしても一滴も母乳がでなくなっていた。
「ちょっとわたしこんな状態みたことないわ。念のため写真を撮らせてもらってもいいかしら。明日わたしの先輩でもっと母乳に詳しい人が来るから。明日また来てもらえる?」
実質お手上げ宣言だった。
家から病院までは車で40分。なかなかの距離だ。
そしてこの辛い状況を明日まで我慢しなければいけないということ、そして明日になっても状況が改善するかどうかわからない、という事実で目の前が真っ暗になった。
「おっぱいに出る産褥期の病気もあるから…ひょっとしたら明日みてダメなら乳腺外科にまわってもらうこともありえるかもしれない」
看護師さんの一言がずしりとのしかかった。
⇒つづく
【母乳ウォーズ 乳腺炎との戦い】 体験談編 その① おっぱいの反乱
それは産後のママさんが恐れをなすもの。
「産後1ヶ月で乳腺炎になっちゃって大変でした」
「里帰りが終わったあとに乳腺炎になってしまい、実家から母が来てくれどうにか乗り切りました」
出産を終えた友人たちのfacebookに「乳腺炎」というキーワードはしばしば登場していた。先輩ママさんたちに聞いても口を揃えて「あれは辛い」という。
どうやらひどく大変らしい、ということは事前から知ってはいたが、正直そんなには意識していなかった。
これはわたしとおっぱいとの戦いの記録である。
最終的にはおっぱいは深夜に爆発し、わたしの勝利に終わるのであるが、そこに至るまでは本当に辛い道のりであった。
いままで当たり前のようにそばにいてくれて、仲がよかったわたしのおっぱい。
しかし出産を機に、彼女らは手に負えない暴れ馬に変わってしまったのである。
-------------------------------------------------------------------------------------------
「小林さん、なかなか母乳の出がいいですね」
助産師さんがわたしの乳首を笑顔でつねりあげながらいう。
ぴゅうぴゅう飛ぶ母乳。痛みでひきつるわたしの顔。
自分の乳首から母乳が出ている光景はひどく不思議だった。
身体の中でいままさに母乳が作られているということ。32年間まったく使っていなかった機能を使って白くて甘い液体が作られているのだ。
ちょっと油断すると身体の中の人が油断して、母乳が作られなくなるんじゃないかと心もとなく、わたしはいつも頭の中で「母乳できろ、母乳できろ」と母乳分泌イメージを繰り返していた。
最初に出がよかったのは右のおっぱい。白い糸のようにぴゅうぴゅうと飛んだ。
それに対し左のおっぱいは少し愚鈍。しかしやる気はあるらしくゆっくりと、しかし確実におっぱいをつくり貯めていった。結果、乳首からはあまり出ないものの左脇の下にぷっくりと熱をもった「副乳」ができた。
変なところに貯めていないでだそうよ…
しかし私たちはまだ母乳初心者なのだ。右胸も左胸も頑張って母乳を作っていることだけで素晴らしい。
2,300gで生まれたミミはもちろん口も小さい。
乳首とミミの口はほぼ同じくらいの大きさであり、当たり前だが彼の口の中に乳首をいれ吸わせるのはほぼ不可能であった。
搾乳器で母乳をしぼり、新生児用の小さな哺乳瓶に移す。
自分から出てきた薄黄色の液体を、自分の赤ちゃんが一生懸命喉を鳴らして飲んでいる光景はなんだかとても神々しく、そして愛おしかった。
病院の搾乳器はピジョンの手動のものであり、授乳が終わるとミミの顔を見ながら搾乳を開始する。
シュコシュコシュコ
赤ちゃんは可愛すぎて、無意識に歯ぎしりをしながら搾乳する。
寝顔をみて絞ると母乳の出がより一層良くなる気がした。
「すきすきすき!!」
まさに愛情たっぷりの母乳。
それは飲んだら胸焼けしそうな程濃く見えた。
そんなこんなで母乳+ときどきミルクの混合で一週間を過ごし、ミミは順調に大きくなり退院をした。
「乳腺炎にならないように気をつけること」
退院のしおりに再度目を通す。
・水分をたくさんとること
・油っぽいものを食べ過ぎないこと
・疲れをためないこと
皆が怖いという乳腺炎。絶対ならないように気を付けようと固く心に誓った。
退院の日、家でのお祝いランチはいくら丼だった。
キラキラと輝く大粒のいくらが熱々のご飯にこれでもかと乗っている。
「お祝いでいただいたのよ。食べましょう!」
いくらはわたしの一番の好物といっても過言ではない。ごはんをおかわりし、いくら丼をこれでもか、とかっこむ。
帝王切開のあのお腹の痛さは、もう遠い昔のものとしてすっかり霞んでいた。
その日の夜、なんだか体調がおかしくなった。
うまく言えないのだが身体が重たい。いや、熱いのかもしれない。
とにかく感じたことのない、いやな感じに襲われる。
『なんか体調へんかも』
けーちゃんにLINEを送って早々と布団にも潜り込んだ。
「ふにゃふにゃふにゃ…」
ミミの小さな泣き声で目が覚める。
(あぁおっぱいあげなきゃ)
ぼんやりと覚醒している中で上半身を持ち上げようとする。
(あれ?起き上がれない?!)
上半身を上から押さえつけられてるような息苦しさを感じる。特に胸の上には大きなものが乗っているようだった。
頭も重く、鈍くギシギシと痛む。
それでもおっぱいを上げるためにどうにか起き上がった。
「なんだ…これ?」
授乳をしていると、次第に寒くなってきた。というか寒いかも、と感じた瞬間には歯の付け根があわなくなり、ガタガタと震えがきた。
(やばいやばいやばい!!)
「乳腺炎」というワードが頭をよぎる。
でも普通乳腺炎って産後1ヶ月くらいになるんじゃ…
『乳腺炎はおっぱいの飲み残しがあることによって乳腺が炎症をおこしー…』
ネットで予習しておいた知識をぼんやりと思い返しながら熱を計ると38度6分だった。平熱が35度代のわたしにとっては一大事だ。
とにかく寒くて寒くてたまらず授乳後すぐに布団に潜り込んだ。
真夏でムシムシした気温にも関わらず、ありったけの布団をかける。
それでも寒くてたまらなかった。ひょっとして急に気温が下がったのでは、と何度も隣に寝ているミミが寒くないか確認した。
どうにかウトウトと眠り、次の授乳時に起きると熱はさらに39度まで上がっていた。
とにかく寒気と頭痛がひどく、仰向けに眠ると胸に重石が乗ったように辛かった。